『万が一、他の企業に就職して『コベツバ』が失敗したら、『自分がいれば、何とかなったかもしれないのに』ときっと一生後悔するだろうな、と思ったからです。』

「夢中になって我を忘れるぐらい没頭するのが好きですし、得意です。むしろそういう時間を持つことが自分にとって自然のように思えます。」





「論理的なことを理解し活用できるが、真理の追求まではできない、しかしそれを現実社会の人間の価値に落とし込むことが好きで得意なのではないか、と感じました。」




私は、そのデータは人間にとってどんな価値をうむのか?をという方向性で思考する癖があると気づいたからです。
例えば、なぜかわからないし、確率70%だけど、赤い夕陽が見れる条件Aというのが判明した場合、科学ではそれは理由を突き止めるまで地道な研究を繰り返すでしょう。私はその結果で満足してしまって次の条件Bを探したくなったり、条件Aが満たされる日を予測する方法を探したくなってしまう、といった具合です。
それを痛感したのは、物理オリンピックに出場するため課題研究をthe 理系男子の方々と一緒に進めているときです。彼らは完全に科学の真理の僕で、人間の解釈を寸分とも入れされない矜持を感じました。逆に私はそのチームの中では、抽象的に展開されている話を現実の制約の中で実現する方法の提案を行うことで価値を出していました。
私は、論理的なことを理解し活用できるが、真理の追求まではできない、しかしそれを現実社会の人間の価値に落とし込むことが好きで得意なのではないか、と感じました。
「いつも対等であると同時に、平等に扱ってくれるところと『ほどほどで良い』『この辺りで手を打とう』と言う姿勢が無かったことが良かったです。」






「1日16時間勉強するぐらいコミットした結果、京都大学の総合人間学部に首席で入学」


はい。どちらかと言うと、好きなのはオルタナティブ、問題も答えも決まっていない学びの方が好きで没頭できます。脳の幅広い部分を使っている感覚があります。運動で言うと全身運動のような健康的な感じです。一方で受験の学びは狭い学び。受験勉強をやり込めばやりこむほど、単位時間あたりで効率良く正解を見出していくことに特化した方が高得点が取れるようになるのですが、そこに必要のない脳の新しい関連づけや知的探求を封印することになるので自分の脳が退化しているような印象を持ちました。
極論ですが、ドイツのナチス政権が人間を効率的に虐殺する方法を考え出した時、その計画を立てていた人は、いかに時間・費用観点で効率的に処理できるかしか考えていなかったので罪悪感を感じなかったという話があります。
普通の精神で考えたらあり得ないんですが、1つの尺度において自分の脳の使い方を最適化させすぎることの弊害を自分の体験を通して感じたので、正解や成果指標が固定化している競技(国内最高峰まで行けば別ですが)を人生の中で続けていくべきではないと感じました。
ただし、正解のある学びも苦手ではないというか人並み以上に得意だとはおもいます。


「自分がメガベンチャーに就職して、何年か後にコベツバが失敗していたことを聞いたら、きっと後悔するな。また、逆に成功していてもやはり後悔するな、と思った。」




